寝ぼけオヤジとは?
高広木材の3代目社長(現会長) 渡辺 昭のこと。
山本周五郎著「寝ぼけ署長」の主人公を理想としており、
自らを「寝ぼけオヤジ」と呼ぶ。
「社長が寝ぼけていても社員が優秀」というのが口癖。
もちろん本当に寝ぼけているわけではありませんので念のため…。
高広木材は、大正7年創業、木材一筋のあきないを続けてきた根っからの材木屋です。
元々は、家一軒分の構造材から下地材造作材まで、国産材も外材も、何でも扱う商売をしておりました。住み込みの従業員が毎日汗だくで材木をかついでいました。黙っていても材木は良く売れました。

一度目の転機
昭和50年、新木場に移転し、フォークリフトが導入されました。従業員も家族を持ち、子育て真っ最中。皆の給料を上げてやりたい。でもどうすれば…?―そこで考えました。小口の商売から、北米材の卸売り専門に変身です。小口の配送をやめたので、自家用トラックを無くしました。材木屋は材木を売る仕事に専念して、運ぶのは運送屋さんに任せたのです。まとめ売りだから売上は伸びました。でも…相場が上がるときは儲かるのですが、相場が下がると一転赤字転落です。「業績は相場に聞いてネ」―そんな商売から、「努力に応じた利益が得られるような商売」にしなくては…といつも切実に考えていました。
何か新しい商品を開拓したいという思いもあり、昭和58年に手狭になった事務所を改築する際、当時取り扱っていた米松で羽目板を作って事務所の壁に貼りました。事務所に来るお客様(材木屋さん)は、皆『いいねー』と褒めてくれましたが、結局この事務所を使っていた12年間、全く売れませんでした。今思えば、「実際に使ってもらうにはどうしたらよいか」という考えが足りなかったのでしょう。

ニ度目の転機
そんな時、最大の仕入先であるマックミラン社から、「ウエスタンレッドシダー製品の小口販売を高広木材でやらないか」との話がありました。実際のところ、その当時レッドシダーは日本で扱う店がなく、カナダで行われたオークションでも誰も興味を示していませんでした。商品は素晴らしいのに見向きもされない…。でも逆に惹かれるものがありました。誰もやらないならば自分が!―そんな思いから、売り先もないのに在庫を持つことになったのです。

とにかく最初は全く売れませんでした。何とかレッドシダーの良さを伝え、使ってもらいたいと、マックミラン社と二人三脚で一般顧客や建築家への情報発信に努めました。その間、自分たちでも経験を積むために、弟である当時の専務は自宅の建築にレッドシダーを使い、当時あった高島平の営業所には小さいながらもレッドシダーのショールームを作りました。始めのうちは、サンプルの発送ばかりでなかなか注文につながりませんでしたが、根気よく続けるうちに、折からのガーデニングブームも味方してくれ、徐々に徐々に売上も増えてきました。

新社屋の建設
それまでの社屋は、駅前広場に背中を向けていました。業者への卸売りを専業としていたので、社屋は見せるものではなく、荷役の安全が第一でした。そんな従来の商売の形態を変えていきたいという思いは強くなり、ついに「家を建てたいと思っている方や、建築家に見てもらいたい」と、レッドシダー製品を使用した新社屋の建設を決心したのです。
今回は駅前広場を正面に店を構え、木を引き立たせるために庭をつくり、花を咲かせました。社屋そのものを、実際に見て触れることのできるレッドシダーのショールームにしたいと考えました。業績を考えるとかなり勇気のいる決断でしたが、この経験を通して、施工やメンテナンスのアドバイスができるようになったことも大きな財産となりました。「レッドシダー専門店」として真剣に取り組む姿勢を見せたいという思いは形となり、おかげさまで新社屋は高広木材のNo.1セールスマンとして今も活躍中です。


お役に立ちたい
「機能しない機関(器官)は淘汰される」―これは自然の摂理です。商売においても、お客様のお役に立てない店はリタイヤを余儀なくされます。
高広木材は「快適な住まい造りのお手伝い」をスローガンにしています。
木材を活かしたさまざまな建築のお手伝いをすることで、快適な暮らしのお役に立ちたいという思いを忘れることなく、材木屋として「木のプロ」であることを目指し、日々努力を重ねていく所存です。

私のひとりごと
「自分のために働いてほしい」
私が商売を引き継いだ時、考えました。縁あって入社した大切な社員に「つまらない会社に入って失敗した」と思われる会社にはしたくないと―。だからいつも、社員に言っています。「会社のために働かなくていい、自分のため、自分の人生を良くするために力を合わせて良い会社を作ろう」と。
「花」作りは「土」作り
レッドシダーはガーデニングに適した木です。レッドシダーを取り扱うようになり、「花」で「木材」を引き立たせたいと考え、園芸を始めました。美しい花を咲かせるのに一番大切なこと、それは「土」作りです。たっぷり有機質を含んで水はけも良く同時に保水性のある「土」で育てると、美しい花が沢山咲いてくれます。即効性の化成肥料だけでは、なかなか思うように育たないのです。会社の経営も同じだと思いました。目先の利益ばかり考えて社員の尻を叩いても、長続きしません。長い目で見て社員を育てることが一番大切だと考えています。


「俺の目の黒いうちは…」
二代目社長である父の口癖です。「俺の目の黒いうちは、肩身の狭い思いをさせるな」と―。その思いを受け継ぐことが私の宿命であり、私もまた、私が生きている間、会社が健全であり続けるよう努力を惜しまないつもりです。そのためにも目先の利益にとらわれず、しっかりと機能する会社にすることを目指しています。
「寝ぼけオヤジ」
学生時代から山本周五郎の小説を愛読していました。長編・短編全て読みました。その中に「寝ぼけ署長」という唯一の推理小説があります。太っていて動作がのろく、いつも寝てばかりいるお人好しの警察署長が、人間味あふれる方法で事件を解決する…というストーリーです。主人公の署長の人柄に魅力を感じ、とても気に入っています。私も「寝ぼけオヤジ」と笑われながらも、会社の経営にあたりひとつひとつを誠実に取り組み、人とのつながりを大切にする―そんな心ある経営者でありたいと思っています。
会社沿革
- 大正 7年
- 創業者 渡辺 広 高弁支店として独立創業
- 昭和23年
- 元会長 渡辺 茂 渡辺木材(協)東京出張所として墨田区立川に於いて営業再開
- 昭和26年
- 高広木材株式会社を設立
- 昭和40年
- 東京木材センター(協)を同業4社と設立、
東京都練馬区大泉に大泉木材センターを開設し出店参加 - 昭和45年
- 東京木材センター(協)、千葉県鎌ケ谷市に鎌ケ谷木材センターを開設し出店参加
- 昭和49年
- 東京住建資材センター(協)を設立、(株)木協として出店参加
新木場移転のため、新木場総合資材(協)を設立 当社元会長 初代理事長に就任 - 昭和50年
- 新木場移転工事完成に伴い、営業本部を新木場に移転
- 昭和57年
- 当社元会長 東京木材問屋(協)理事長に就任
当社元会長 東京都木材組合連合会会長に就任 - 昭和60年
- 当社元会長 社団法人東京都木材団体連合会の発足に伴い、初代会長に就任
- 昭和63年
- 当社元会長 渡辺 茂"勲4等旭日小綬賞"を叙勲
- 平成元年
- 当社元会長 全国木材協同組合連合会会長に就任
- 平成 3年
- 本店所在地を江東区新木場に移転するとともに、渡辺 昭 社長就任
- 平成 7年
- 木製ガレージ・シダーシェッド等の木製品を販売する目的で、(株)ジェイスタイルを設立
- 平成 8年
- 大泉営業所と高島平営業所を統合して大泉営業所にて営業し高島平営業所は閉鎖
- 平成 9年
- JR・東京メトロ有楽町線新木場駅前に当社新社屋が完成
- 平成15年
- 大泉木材センターの閉鎖に伴い、大泉営業所を閉鎖し、高島平営業所での営業を再開
- 平成20年
- 東京住建資材センター(協)の移転に伴い、高島平営業所を閉鎖
- 平成25年
- 東京木材センター(協)鎌ケ谷木材センター閉鎖に伴い、鎌ケ谷営業所を閉鎖
茨城県坂東市に坂東営業所を開設 - 平成26年
- 当社元会長 渡辺茂 逝去
渡辺昭 会長就任、渡辺幹夫 社長就任 - 平成28年
- 当社会長 東京木材問屋(協)理事長に就任
- 平成28年
- (株)ジェイスタイルを高広木材(株)に吸収合併
- 平成30年
- 当社会長(一社)東京都木材団体連合会 会長に就任