INTERVIEW 建築家インタビュー 01

レッドシダーの魅力を、日本へ

建築家

納賀 雄嗣

合理的な木造建築システム、「ツーバイフォー」という発想

――ツーバイフォー工法の第一人者として知られるようになったのは、どういった経緯があったのですか?

納賀僕は16歳で単身で渡米して、それから高校・大学・大学院とアメリカで建築を学び、仕事を始めた頃、1970年頃ですね、日米間で貿易摩擦の議論がありました。日本の貿易黒字が大きすぎるといって、ミシガン州で、日本の車をぶっ壊すなんてニュースもあった、そういう時代です。ジャパン・アズ・ナンバーワンとかそんな本も話題になっていました。

それで、アメリカの農務省が中心になって、日本により多くの木材を輸入してもらおうと動き出したんです。米国産のレッドシダーを、アメリカの建築システム、ツーバイフォー工法と一緒に輸出したいということで、僕に一肌脱いでくれ、と依頼がありました。

――木造大国の日本に、米国の木造建築システムを紹介することに難しさはありませんでしたか?

納賀そうですね。大学の学生だった頃、日本が木造建築の文化国家であるということは、意識していましたが、僕は日本で中学までしか過ごしていなかったので、そのときの僕の日本建築に対する知識っていうのは、まだ「絵葉書」にみる世界でした。
アメリカ人の仲間から、丹下健三と、ヴァルター・グロピウスが共著で書いた桂離宮の本(※『桂 KATSURA 日本建築における伝統と創造』/1960年)について「説明しろ」なんて言われるんですが、当時は答えられなかった。
日本人でありながら、日本の木造建築を知らない。それなら、アメリカの木造建築を知っておこうと思って、僕の大学の先生でもあったポール・ルドルフの木造プロジェクトに参加しました。彼は、ブルータリズムなどコンクリート建築で世界的に有名な建築家ですが、合理性・経済性を追求した、低所得者用の木造住宅プロジェクトも手掛けていたんです。

その合理的な工法は「20世紀の煉瓦」なんて呼ばれて、基本的な構造材は5種類、2✕4(ツーバイフォー)、2✕6、2✕8、2✕10、2✕12インチでいい。大変合理的で、わかりやすいと思いました(日本では「枠組み壁工法」、「ツーバイフォー工法」などと呼ばれる)。今もアメリカでよく見かける「モービルホーム」は、ほとんどすべて2✕4工法の木造です。きれいですよ。

2インチという厚さの合理性

納賀シンプルな発想の中で育った2✕4工法は、当時量産されるようになった釘のサイズとも関係があります。

それ以前はアメリカでも日本と同じように釘は四角い、手作りでした。それが、産業革命以降、ワイヤーが量産されるようになったので、それを切って同じサイズの釘を量産できるようになって。で、量産化された釘が使いやすいような木材の断面が2インチだったんですね。
日本にも農林規格で決まった木材のサイズというものはあったのですが、当時は各地で微妙に違っていました。日本各地で豊かで複雑な木造文化が育まれてきたことがわかります。一方、アメリカは新しい国で、日本の木造建築が重ねてきたような技術・文化の洗練はありません。けれども、合理性・経済性を選んで追求するならば、2✕4工法はそれまでにない、木造建築を選ぶ一つの説得材料になるんじゃないかなと思いました。

レッドシダーの1センチには、10年の歴史が刻まれている

――初めてレッドシダーに出会ったのは?

納賀レッドシダーを知ったのは学生のときです。アメリカの住宅の屋根には良くレッドシダーが使われていて、よく見ると、柾目で年輪も詰まっているんですね。3〜500年の原木が使われていることに気づいて驚きました。こんな贅沢なことやっていいのかなと。
貴重な高齢木の無節で柾目のきれいなところだけを割って、屋根にして、その寿命がせいぜい50年とか60年。なんて勿体ないことをしているんだろうという気持ちと同時に、こんな木が本当にあるんだということにも驚きました。

1970年、日本に帰ってきた頃ですか、屋久島に屋久杉の森や材を見にいく機会がありました。国宝級に評価されている木材ですよね、年輪厚さ1センチの中に10年以上の歴史が刻まれているという木です。美しいなと思って僕も小さなお盆を買ってきたんですが、同時に、それとレッドシダーを比較してみてどこが違うんだろう?という素朴な疑問を持ったんです。
屋久杉と較べて、レッドシダーはデッキにするような材料でしか評価されないというのは、惜しいことだと思いました。とにかく、レッドシダーを気に入っていたんですね。

レッドシダーの可能性を「建てながら」検証

――蓼科のこのご自宅は、セルフビルドだそうですね。

竣工当時の山荘画像 外壁とデッキはレッドシダー
竣工当時の山荘の様子。外壁・デッキなどウエスタンレッドシダーがふんだんに使われている。

納賀対米貿易黒字を背景にして、2✕4工法を導入しようと国が決めた当初、僕はいろいろなところに引き出されましたし、米国での経験もあったので、一色設計事務所の僕だけが、実際に設計して建てるという経験を重ねていました。事務所のスタッフは、経験が足りないからツーバイフォーがよくわかっていなかった。それで、とにかく作っちゃおう、作れば一番わかるんじゃないか、と建てたのがこの家です。

当時なんだかんだ40人ぐらいいたかな、45人くらいか。4~5人のチームを作って、月1回、5日間で、自分が書いた図面の部分を自分で作る、というのを続けました。もちろん野宿ですよ。まだ建ってないんですから(笑)

1980年から4年かけてセルフビルドした当時の写真。大切に保管されている。

完成しない家

納賀みんな構造図は書けるんですよ。シンプルですから。でも窓枠がこの家にはないんです。
当時は誰も窓枠を作れなくてね。だから、切りっぱなしです。合板をバーっと貼り込んで、それからルーターを使って外したの、窓をつくるために。だから、角がみんなアールになっているでしょう? 結果的には、窓枠が無いのもいいなあと思って、それを新たなディテールとして採用したんですけど。

ここは基礎も全部自分たちでやりました。布基礎にせず防錆処理をした重量鉄骨を土台にして、下はびゅんびゅん風が通るようにしてあります。湿気を貯めないので、木が傷まない。

風が通り抜ける基礎の様子。基礎工事も自分たちで行ったそう。

(壁を指して)外壁材はイコール内壁材だからシンプルでしょう。30ミリ厚のレッドシダーです。この階段も、4✕6インチの、無垢なんですよ。当時は値段が安かったのでふんだんに使うことが出来ました。

はじめは2年くらいで完成させようと思っていたんです。地元の人たちも、東京の若い連中も結構やるじゃないかって応援してくれて。でもね、4年目になっても完成しないので、だんだん、地元の人たちにも呆れられるようになっちゃった(笑)。
それで、これでも生活できるんだから「未完成のまま完成」したことにした。そうすると「未完成」ってのは結構いいコンセプトじゃないかって思って、未完成住宅というシリーズをね。東京でもやったんですけど。

完成しなかったこの家は、40年経ってなかなかいい味がでてきたと思います。

40年以上経過したウエスタンレッドシダーの外壁 無塗装
40年以上経った現在の姿。外壁に使われているウエスタンレッドシダーは40年以上無塗装のまま。

高広木材との出会い

――渡辺社長は納賀先生とどんなふうに出会ったのですか?

渡辺僕が今までの国産材の木材販売に行き詰まっていた頃です。非常に激しく厳しい価格競争のなかで構造材を扱っていたのですが、これじゃあとても事業を続けていけない、なにか独自性のあるものを始めなければと常に考えていました。
そんなとき、2✕4(ツーバイフォー)で木造の3階建てが建つと聞き、納賀雄嗣さんという名前を知って。それから何か講演があるたびに、私は追っかけのようにして伺っていたんです。やがてレッドシダーに惹かれるようになり、新しいビジネスを始めてみたいと考えるようになりました。

当時はまだレッドシダーをどう使えばよいのかわからなかったので、まずは自分の家を建ててみようと考えて。一大決心をし、銀行からお金を借りて、納賀先生の事務所に設計をお願いしたんです。ほんと小さい家ですけれど、大勢の生徒の中の一人でしかなかった私の家の、あんな小さい地鎮祭にも先生はお越しくださって、それが本当に嬉しかった。1995年のことです。

納賀当時渡辺さんはまだこれから頑張るぞ、という青年で「本当にレッドシダーを愛しているから」と設計を依頼くださった。僕が当時お付き合いしていた木材業界の方々は、佐藤製材さんとか、渡辺さんの親父さんの世代でしたから、ひと世代違う感じで印象的でした。貯木場が旧木場から新木場に移り、まだ木場に材木会社が何百社もあった頃からのお付き合いが多かったのです。

渡辺新木場ができた頃、600社くらいですか。

納賀そのくらいはあったでしょうね。残念なことに、その多くが材木屋さんから不動産屋さんにかわってしまいましたが。

アメリカからカナダへ、丸太から製材品へ、時代は移る

――その頃、レッドシダーは、木場に入ってきていましたか?

渡辺木場にも米杉(レッドシダーは米杉と呼ばれていた)専門の業者がいくつかあって、北米から来た丸太があそこの貯木場に浮かんでいました。その頃の「米杉」は国産材の代替品としか扱われていなくて、ほとんどが床の間部材(床柱・床框・長押)の芯材など、見えない部分に使われていました。ですから、佐藤製材さんが、納賀先生の設計に応えて、無垢のレッドシダー板材を挽いたのは本当に小さな、しかし意味のある需要だったと思います。

当時は、アメリカのシアトルからのオリンピック半島あたりがレッドシダーの一大産地だったんですが、その後時代が移り、森林生態系の保護を目的に国立公園が指定され、米国から丸太が入ってこなくなりました。林産物のアジア向け日本向けの輸出はカナダに移っていったのです。

当時カナダでは、マックミラン・ブローデルという大きな林産企業が日本向けの輸出を担っていましたが、1980年代になるとカナダでも丸太の輸出が禁止されます。代わりに製材品が輸出されるようになるのですが、1989年、レッドシダーの製材品を、1コンテナまとめて仕入れたのは高広木材が初めてじゃないかと思います。まったく売れるあてもないのに、買ってきてしまったんですから(笑)。

レッドシダーの魅力を活かしたい

渡辺当時はダグラスファーとか、米ツガ、スプルース、和室の造作などに使う国産材を代替できそうな木材がまだ人気でした。レッドシダーは5年くらい何も売れませんでしたね。でも、僕は海外から輸入した木材を、日本の国産材の代替として使うのは嫌だった。適材適所というように、木材にはそれぞれの魅力や特徴がある。レッドシダーの魅力・特徴を活かす新しいマーケットを拓きたかったんです。

国が国産材の自給率を高めたいという背景もあって、平成12年6月の建築基準法改正以降、防火構造等に必要とされる性能が明確化され、木材の利用に対する規制が緩和されました。建物外部に木を使うということが、部分的に認めてもらえるようになり、レッドシダーサイディングを採用していただく機会もすこしずつ増えていくのですが、最初は売り先がなくて、一色設計さん、納賀先生が手掛けるプロジェクトに採用していただいたことが、本当にありがたかったのです。

例えば住宅展示場のセンターハウスや、天王洲アイルのクリスタル ヨット クラブなどに使っていただいたのですが、レッドシダーの魅力が引き出されて、それは素晴らしかった!

クリスタルヨットクラブ ウッドデッキ 一色建築設計事務所HPより レッドシダーを使用
クリスタルヨットクラブ ウッドデッキ [一色建築設計事務所HPより]

今でこそアウトドアを意識した建築が人気ですが、当時はまだ少なかったから、先生のデザインがトレンドの最先端をいっているように僕は感じていました。
レッドシダーを使いこなせるのはやっぱり、納賀さんのところしかなかったんです。

無用の美

納賀レッドシダーでいろいろな建築物を建ててきましたが、僕は今、渡辺さんが送ってくださる不思議な端材から、オブジェを制作しています。それは「無用の美」なんだけれども、一つとして同じものがない「美」です。

渡辺大きな節やひどい捻じれなどがあるようなユニークな材を見つけると、納賀さん用の箱に取り分けておくんです。先生がこの材の中に何をご覧になり、どんな美しさを掘り出されるのか、本当に楽しみでワクワクします。

レッドシダーの木片から作られた作品の数々。大きな節や特徴ある木目に美しさを見出し、丁寧に削り出されている。
作品の数々。大きな節や特徴ある木目に美しさを見出し、丁寧に削り出されている。

納賀夢みたいな話だけれども、いつか1000年を超えるような材に出会って、オブジェを制作してみたいですね。1センチが10年、年輪をテーマに、その木口が世界の歴史を語るような、そんなオブジェができたらいいなぁって。

建築家

納賀雄嗣のうが ゆうじ

1940年生まれ。米国の高校へ単身留学。1968年イェール大学大学院建築学部終了後、ポール・ルドルフ事務所入所。1970年帰国。1972年一色建築設計事務所(東京)設立。横浜国立大学、日本大学、早稲田大学非常勤講師を務める。 2008年より長野県蓼科鹿山村、元一色建築設計事務所蓼科アトリエを改修定住。
多様な木造建築構法を個人住宅、集合住宅、公共建築のデザインに反映させてきた。 個人住宅では建築士事務所協会・住宅優秀賞、集合住宅では建設大臣賞、公共建築では栃木県知事より建築最優秀賞など多くのプロジェクトが受賞対象となった。

INTERVIEW 02

レッドシダーの可能性を楽しむ